言語教育と道徳教育

だいぶ前、テレビで
「今の日本語教育は漢字の書き取りと道徳教育になってしまっている」
という話を見ました。
たとえば、国語の問題として
「くじらぐもはどこにあらわれたのですか?」
とか
「ぼくが目になろうと言ったのはだれですか?」
とか文章中から読み取れることを質問するのはいいのだけど
「太郎がとなりの女の子の消しゴムを勝手に使ったのは良いことですか?」
というのは言語教育の範囲を越えているという話。
「リリリリリ」とこおろぎの真似をしても許されるもんじゃないよね、とか。


でも、言語は世界を決めるものなので、道徳的な話題が入ってくるのは仕方ないのかとも思います。
古典の授業なんかでは、いちいち「xxxしたあとはoooすることが慣わしだった」とか「vvvすることははしたないとされていた」とかt当時の道徳の解説が入っていて、それがないと何のことかわかりませんよね。
言語教育より道徳教育のほうがお話として時間を潰しやすいので、教える側の言語に対する能力の足りなさをごまかすために道徳教育に逃げてしまうというのがあって、それがよくないという話ではあるんですけど。


同じように、「想像するのは言語教育じゃない」っていうのもあります。
クラムボンとはいったいなにを表しているでしょう?」
と想像したり推測したりするのは、文法の理解や読み書き能力とは違うという話です。
ただ、自然言語というのは、書かれているもの・話されているものがすべてではないので、そういった「書かれていないもの」があるということを知るのは必要じゃないかと思います。これもまともな授業ができないから児童に5分想像させて時間を潰すというのではよくないですけど。
二匹の子蟹は殺人現場を目撃したんですがね。
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プログラム言語を教えるときも、同じようなことがあります。Javaオブジェクト指向を同時に教えるというようなことです。
ぼくはJavaの言語を教えるときには、なるべく思想的なものを混ぜないようにしています*1
たとえば
「while(true)よりもfor(;;)の方がいい」
というのは、明確な理由があるわけですが、
「定数をまとめるためのinterfaceを定義するのはよくない」
というのは、明確な理由があるとは思えません。だから、「やってはいけません」とは書きません。その代わりそういうサンプルも書きません。


オブジェクト指向も、「オブジェクトとはモノである」とか「オブジェクト指向ではオブジェクトとオブジェクトがメッセージをやりとりして・・・」とかそういう思想的なものはなるべく省いて、ただ文法と動作的な効果を淡々と説明します。理解の助けになると思えるものだけ取り入れるようにしています。
昨日今日初めてコンパイルという言葉を聞いたという人に、概念的なものや思想的なものを説明しても理解は難しいし、Javaでプログラムを組むすべての人にオブジェクト指向の知識が必要だとは思わないし。
オブジェクトがメッセージをやりとりして、っていうのも自分でいまだにピンと来ないわけで。


プログラム言語は、自然言語と違って、そこにあるものが全て、という感じがします。そこに道徳や倫理はなくて、ただ効率がいいかわるいか。そのスパンが人それぞれ違うわけですが。
「このプログラムでいったい著者はなにがやりたかったのでしょう?」
と想像力を働かせる必要があるプログラムなどもってのほか。


「この変数kurambonとはいったいなにを表しているでしょう?」

参考文献

光村ライブラリー全18巻セット

光村ライブラリー全18巻セット

*1:混ぜないようにすること自体が思想なのですが