記憶のコード

よく映画なんかで、他人の脳みその記憶を抜き出してその記憶を読み取ったり自分の記憶に入れ込んだりすることがあるんだけど、あれがどういう風に不可能か考えてみた。


簡単に言えば、あれは、Oracleのデータ領域のバイナリを抜き出してPostgreSQLのデータ領域にそのまま突っ込んでるようなもので、まったく使い物にならないはず。
まあ同じ人間だものってことで1歩譲って、RDBMSは同じだとする。
だけど、同じテーブル構造になってるとは限らないので、やっぱり抜き出したバイナリは使い物にならない。
100歩譲って同じテーブル構造になってるとしても、文字コードが同じ可能性は低いのでやっぱり使い物にならない。
記憶のコードというのは人それぞれで同じではないし、外からどのようなコードになっているかを調べることもできない。そもそも自分でも不可能だ。それは、Javaのプログラムでそのプログラム自身がどのようなネイティブコードとして実行されるかを調べれないことに似てる。


それよりも問題になるのは、記憶の個性というのはデータ構造よりもむしろ認識のほうにあるということだ。外からの刺激をどう受け取るかという部分の方に個性がある。同じ青を見ても海を感じるか空を感じるかはひとそれぞれだ。
要するに、ハッシュ関数が人それぞれだということだ。そのため、どんなにハッシュ値がわかったところで、それが何に対応しているのかわからないし、似たような2つのものを刺激として受け取っても、人によって同じハッシュ値になったりまったく違うハッシュ値になったりする。


じゃあ、シリアライズして受け取ればどうか。人間には言葉があるじゃないか。
言葉。
あてにならなさ実証済。