小室哲哉の人とそのバックバンドだった人

ティチェ ブランシェ

1980年から1990年の歌謡曲って、阿久悠から小室哲哉の流れで、これは役割的には作詞から作曲への流れと見れるんだけど、阿久悠の詞は、朝が来ても夜が来ても夏が来ても冬が来ても、どんな歌が来てもいけるよ的な、すんごい力強さがあったのに対して、小室の曲は、実際には小室が詞まで作ってるんだけど、思い返してみると、テケテテテ〜みたいな薄い曲に、「いつまでも好きだよ〜」とか薄い歌詞が乗ってるだけで、要するにCM用に4小節くらい耳あたりのいいフレーズがあっただけで、内容がないよう、という感じで、つまりは、時流に乗っただけなんですよね。
おんなじような曲しか作れないもんだから、一旦時流に乗るとトコトン乗るんだけど、ちょっと飽きられると、もう全然だめ。むしろ嫌悪感。
そうなると、「新しい」曲を作っても小室くささがあって、毛嫌いされる。けど、実のところ新しい曲なんか作ってなくて、単なるバリエーションでしかないから、毛嫌いされてたわけですよね。


ただ、まあ、ほんとに、詞から曲の流れは強くあって、もう詞なんてどうでもいいという世界になってるわけですよね。
ぼくはB'z好きなんですけども、あの人たちは、作業工程的には、詞はかなりないがしろにされてて、まあどうでもいいわけわかんない詞がついてるわけです。AメロとBメロはつながってて、BメロとCメロもつながってるんだけど、AメロとCメロはつながってないよ、みたいな。
けども、B'zは、曲がちゃんと支えてるんですよね。というか、曲がしっかりしてるから、詞は後付け。松本が強く、稲葉は後。
ただ、普通に耳につく範囲では、B'zの曲も全部いっしょやん、と聞こえるけど、あれは、シングル用に「B'zっぽい曲」を作ってるだけとも言えて、アルバムの曲は、ぜんぜんB'zっぽくなかったりする。
ちょっと譲って、まあ全部B'zっぽいことには変わりないとしても、たとえばAメロとブリッジとサビの調が違うのとかは当たり前で、サビでも前半4小節と後半4小節は調が違って全部で4つの調があるとか普通。それがB'zっぽさを出してて、てことはめちゃくちゃテクニカル。小室の、単に半音上げましたよという転調とは違う。また、これが、ボーカルの音域に合わせて、いい声が出せるように調を選んでるからすごい。
そういう、ちゃんとした実力があってこその19年連続1位だと思うんですよね。売り方ももちろんあるんだろうけど、それだけじゃここまで記録は伸ばせない。


ようするに、何がいいたいかというと、一時のブームだけなら運と時流だけで売れても、それだけじゃすぐ飽きられるし、継続して売るには実力が必要だし、ちゃんと売れるものにはちゃんとした内容が必要だということ。
良いものを作っても売れるとは限らないし、良くないものが一時的に売れることもあるけど、ちゃんと売れるためには良いものを作るというのは必要不可欠。