自分の「悪」をみつめる

知っている人も多いと思うけど、ぼくは時間を守らない。
で、あらかじめ断っておくと今回のテーマは、じゃあそれを反省して時間を守る人になろうということではない。あしからず。
こうやって、欠点をあげてみたというだけで「悪をみつめる」ということになるのか、というお話。


ぼくが時間を守らないことに関しては、結構周りの人も知ってて、たとえば7時開始の飲み会の集合時間が、ぼくだけ6時半集合とつたえられてたりする。で、だいたい7時10分について、だいたい乾杯に間に合う。
つまり、時間を守らないということがぼくの個性として自他ともにある程度認められているということだ。


ところで、話は少し変わるのだけど、「自分は文系であるから数学はできない」という話を結構目にしたり聞いたりする。実際には、数学ができないから文系を選んだということもあるはずなのに、いつのまにか文系であるから数学ができないと、因果関係が逆転して数学ができないことを正当化している。
ほかにも、高校生くらいの人だと議論の未熟さから言い争いになり最終的に暴力を振るって解決してしまうということがある。そのとき、議論が未熟であるということではなく、自分が暴力的であるという自己解決をして、自分は暴力的であるから暴力を振るうというようになることがあるらしい。


さて、これを読んでる人には気づいた人も多いと思うのだけど、「文系だから数学はできない」や「暴力的であるから暴力を振るう」と、「個性であるから時間を守らない」は同じ構造になっている。実はぼくは時間を守らないことを個性としていることに気づいていたし、それはあまりよくないことであるということも気づいていた。けど、これが「文系だから数学はできない」と同じ構造であることには気づいてなかった。


人は、自分の悪い面ということに気づくことは難しい。むしろ悪い面には気づけない。欠点をあげるところまではできることが多い。けれど、その欠点に「文系だから」とか「個性だから」と理由をつけて片付けてしまって、そうやって片付けたことには気づけないでいる。それに気づいたとしても、それは「自分」を揺らがさない程度のものであって、本当に自分を揺るがすような「自分の悪い面」については、気づくことはできない。ましてやブログに書いて公開することなどはできないと思う。
今回ぼくが「時間を守らないということを個性としてしまっている」という部分については、「自分」を揺るがすほどの「悪い面」ではないと判断したから気づくことができた面もあるし、これをネタにブログを書こうとも思えた。おそらく「文系だから数学はできない」というのも自分を揺らがすほどのことではないから言えるのだと思う。「自分は暴力的だから暴力をふるう」というのに至っては、それこそが自分を揺らぎないものにしていて、そういう人に「あなたは暴力的な人ではありません」と言うと「自分」が揺らぐかもしれない。
書き進んでから気づいたのだけど、ブログに書くにあたっては「それを反省して時間を守る人になろうということではない」ということを担保にして、公開を可能にしている。逆に「それでこれからは時間を守る人になります」としたところで、それが公開を可能にした担保であることに違いはない。


ともかくとして、自分の欠点に気づくこと、そして、その欠点をどのように消化して日々くらしているか気づくこと、最終的にすべての悪い部分に気づくことは不可能であることに気づくことが大切なんではないかと思う。
で、あと、なるべく時間は守ろうと思う。


参考文献

倫理学への助走―「わかる」と「わからない」のあいだ

倫理学への助走―「わかる」と「わからない」のあいだ

カントの言う「私は正しい」というような「狂信」に陥らないために、フロイトのいう「無意識」を意識するという感じのことが書いてあります。倫理学は意外に面白いです。
この本はページ数も少なく文章も読みやすいので、なかなかいいと思います。けど、哲学のいいまわしがあるので、ちょっと難しい。
今回の話は、この本に載っていることを自分にあてはめてみただけといえます。