誤らないことよりも、誤ったときに誤りを認めることが大事

今朝Twitterで、有名サイトの作者が亡くなったという情報が流れた。
元になったのは、同じハンドル名の人が亡くなったという情報なのだけど、それが有名サイトと結びついて流れた。
その後、どうやら亡くなった人と有名サイトの人は別人であるらしいということになって、誤報であるという情報が流れた。


で、こういうときに、Twitterの情報は疑ってかかるべきだとかなるのだけど、まあ、すべからく情報はできうる限り一次情報に近いところに当たるべきだ。
RTなら、RT元の人の投稿自体を確認して、その前後関係を確認する。そういった確認ができないという点で、protectedの人の発言をRTするのはよくないと思う。


けど、最終的にたどりついた情報が一次情報だと思ってしまうこともある。今回はたどった先がMLの投稿であったので、ぼくはそれを一次情報だと思ってしまった。自己弁護だけども、たぶん、今回の件があまりにも速く広まったのはそういう一次情報っぽさがあったことも無関係ではないと思う。


誤りを避けるように努力するのは当然のことなのだけど、必ず誤りというのは生じると考えることも大事だと思う。
誤る可能性があるから全く情報発信をしないというのはもったいない。誤りをあってはいけないことだとして、誤りをこっそり修正してなかったことにすることもよくない。無理やりなにかをこじつけて誤ってなかったことにするのもよくない。


誤りがあるのは当然だとして、だからこそ誤りがないように気をつけて、誤りがあったときには訂正することが大切だと思う。
Twitterでは今回、その有名サイトの人が亡くなったというReTweetと同じとまではいかないけど、それに迫る数だけの誤報であったというReTweetも流れた。亡くなったという報を流した人のうちの多くが、誤報であったことを流すことに責任を感じるているように思えた。
Twitterでは、誤報を流しやすいけど、それだけ誤報の訂正の必要性も認められているように思うし、それがTwitterのいいところだと思う。


誤らないことは難しい。
謝らないのはよくない。