Twitterで「イヤならremoveすればいい」というのは、問題が解けなくて悩む人に「解けないなら単位すてればいい」とアドバイスするようなもの

Twitterで「RTのやりかたがイヤだ」とか「@のつけかたがイヤだ」とか「まいんちゃんタイムラインがウザい」とか、いろいろと発言の仕方に不満があると言っている人に「イヤならremoveすればいい」と言う人がいる。
これは、学校の課題の問題が解けなくて悩む人に「解けないなら単位すてればいい」とアドバイスするようなものに思える。


たしかに、単位をすてればその問題を解く必要はなくなる。
その教科に興味がなかったり、単位に余裕があったり、卒業すること自体に興味がないのであれば、単位をすてるのも解決策になるかもしれない。
でも、その教科に興味があったり、その単位は必修だったり、単位をひとつでも多くとることにこだわりがあったり、その単位を簡単にすてれない場合のほうが多い。


問題が解けなくて悩む人に、単位をすてればいいとアドバイスするというのは、問題の解決ではなく問題の排除でしかない。
同様に、Twitterで「イヤならremoveすればいい」とアドバイスするのは、問題の解決ではなく問題の排除でしかなく、それは最終手段だと思う。
もっといい解決策があるかもしれないのに、最初から最終手段を提案するというのは、よりよい手段を考えることを放棄しているという意味で、思考停止ではないかと思う。


勘違いしてほしくないのは、「イヤならremoveする」という方針を取ることを否定してるわけではないということだ。「イヤならremoveする」というのは、もちろん解決策のひとつで、そのポリシーが取れるならそうして問題はないと思う。例えば「Twitterでいろいろ悩む必要はないからイヤな発言があったときはremoveしている」というのは、ひとつの大切なTwitterへの向き合い方だと思う。
あまりよろしくないと思っているのは、「あの人の発言のしかたが・・・」といっている人に、その事情を聞かずに「イヤならremoveすればいい」と最初に提案することだ。いろいろ事情をきいて「それはremoveするしかないね」という結論になるのはいいけど、無条件に「removeすればいい」というのは、どうかと思う。


類似:「隣人のふるまいがイヤなら引っ越せばいい」というのは、問題が解けなくて悩む人に「解けないなら単位すてればいい」とアドバイスするようなもの