ただ漠然と10000時間では意味がない

シュナイダー アヴェンティヌス

10000時間くらいやったら天才になれる、ということですが。
http://lifehacking.jp/2008/11/the-law-of-10000-hours/


ぼくは小学校のころからプログラムしてるので、そこから大学の最初の4年まで、趣味だけで組んでた時期は週3時間くらいプログラムしてたとしましょう。
3時間×52週×12年=1872時間


大学の4年目の終わりくらいから仕事でプログラム始めたので、まあそれでも毎日毎日というわけでもないけど、まあ、さすがにプログラム専業なのでid:higayasuoさんより多いだろうってことで、一日2時間より多い週15時間ってことにする。
15時間×52週×12年=9360時間


ん?普通に仕事で組んでれば早いうちに1万時間行くね。
まあいいとして、合計すれば11232時間。ということで、1万時間は超えてますね。
実際には、たぶんもっとやってて、15000時間くらいには行ってるはず。
天才プログラマになれてるんだろか?


と、ここで上の計算から仕事でプログラマやってれば結構すぐに1万時間行くことがわかった。
じゃあ営業日に5時間コードを書いてたら
10000 / (5時間 × 20日 × 12ヶ月) = 8.3
で、8年で1万時間。
8時間コードを書いてたら5.2年で1万時間。


ということは、ちょっと勤務時間がタイトな会社なら、新卒23才くらいでプログラム書き始めて28才くらいでは1万時間いってることになる。
ここで、
「おい、ちょっとまて、大きい声ではいえないが、あの社員は絶対1万時間コード書いてるが、今年入った新人にも抜かれてるじゃないか」
という声が必ずあるはず。


さて、ちょっと話を変えよう。
タクシー乗ったことありますよね?個人タクシーでおっちゃんが運転してたりすると、毎日平均8時間とか乗ってるはずだから、ぜったい1万時間運転してる。
じゃあ、このおっちゃん、筑波サーキットとか走らせると天才的なラップタイム出すの?といわれれば、そんなことはまずない。それどころか、ブレーキは下手だしアクセルもがくがくだし、クネクネ道はなんか気持ち悪い、というひどい運転してたりする。


運転がうまくなるためには、移動のための運転じゃなくて、向上のための運転を何時間やったかが問題になる。
たとえば、運転向上の練習としてこういう練習をする。信号停車のときに、信号が赤と気づいてブレーキを踏むとき、一旦ブレーキを踏んだら、それを踏み足しも緩めもせず、最初に踏んだ力のままで目的の停止位置に止まれるようにする。こういう低速で踏力一定で目的の位置に止まれなければ、スピードが出た状態でフルブレーキという踏力一定で目的のブレーキング距離での減速はできない。そうすると、コーナー手前で減速しすぎてブレーキを抜いて、せっかくの前荷重も抜けてしまって、減速しすぎてるのに曲がれないということになる。


けれども、上に書いたような練習を1週間もすると、踏力一定で目的の位置で止まれるようになるし、乗り心地という点でもかなり運転技術が向上してるのがわかる。ペダルの踏み方がわかるので、アクセルもちょっとうまくなる。コースに出れば、ブレーキで車の姿勢が安定して前荷重がかかりやすくなるので、うまく曲がれるようになる。


同じように、プログラミング能力をあげるためには、機能を実装するプログラミングというよりも、プログラミング能力を向上するためのプログラミングをどれだけ行ったかが大切になる。
昨日できてたことを今日も明日も1ヵ月後も1年後も続けるだけでは、昨日の時点から、まあせいぜいこなれた程度の向上しかない。新しいことはできるようにならない。
ライブラリや言語の勉強も、ひととおりアーキテクチャパラダイムを把握すれば、あとは覚えてるライブラリや言語の数が増えただけ、ということになる。
プログラミングの天才になるには、プログラミング能力を向上する行動を継続する必要がある。


冒頭で挙げた記事にも、努力を10000時間と書いてある。
プログラミング時間1万時間越えのぼくが、ネット広告ビジネスが大当たりしてでっかい会社たちあげて、この不景気でリストラとか断行してやいのやいの言われたりしてないのは、たぶんまだ天才プログラマになれてないからだと思う。
というのも、プログラミング能力の向上を明確に意識しだしたのは今年に入ってからで、やっとプログラムわかってきたかなぁという感じで、努力を1万時間続けたわけではないので、天才プログラマにはもうちょっとかかるということだろう。


けど、この一年でのぼくの成長は、このブログの去年、2007年11月あたりからのタイトルを追ってみるとわかると思う。去年の11月にはできなかったことができるようになったし、考えれなかったことが考えれるようになった。この一年はちょっと近づいたと思う。