プログラム言語の部屋

ジョン・サールの「中国語の部屋」という話がある。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/chugokugo.html


部屋に閉じ込められたイギリス人が、中国語の手紙をうけとる。イギリス人は、手元にある「中国語で返信」手順書にしたがって、手紙にかかれた記号から導き出される記号を紙に書いて送り返す。手順書がよくできていてイギリス人はまじめに膨大な手順を実行しているので、送り返された手紙を見た人は、部屋の中のイギリス人が中国語を理解していると考える。
果たしてそのイギリス人は中国語を理解していると言えるか、と。


さて、「プログラム言語の部屋」というのを考える。
部屋に閉じ込められたサラリーマンが、日本語の仕様書をうけとる。
手元によくできた手順書はないが、仕様書はある程度パターン化され、そのパターンに近い過去プログラムからコードをコピペして送り返す。
監視体制がよくできていてサラリーマンはまじめに膨大なコピペを実行して大量のコードを生産しているので、納品されたプログラムを見た人は、部屋の中のサラリーマンがプログラム言語を理解していると考える。
果たしてそのサラリーマンはプログラム言語を理解していると言えるか。


あれ、なんかよく見かける話になった。