SNS時代の友達というのは個人ではなく集団の友達濃度

よく、友達がいるとかいないとか多いとか少ないとかいう話になったときに「ぼくは友達いるんだろうか?」と思っていた。
たしかによく飲みにいく人はいるし、最近は少ないけど物理で勉強会があったときには月に2-3回会う人は結構いた。あと、ぼくのだいたいの生活は1000人くらいが把握している気がする。けどじゃあ「友達」にあたる人がいるかというと自信がない。

とはいえ、飲みにいこうと思って誘えば必ず行ける人は いるし、話をする相手はみつかるし、世間的な「友達がいる」という状態になってる。

ということを考えると、「友達」が個人ではなく集団で、クラスタとして存在している気がする。
Twitter上でのやりとりの頻度でマップを作って実際に飲みにいった人の比重をあげて、密度が高いところが「友達濃度が高い」みたいになっている。

「人間関係の希薄化」ということはよく言われるけど、これは基本的には人間関係の広範化とセットのはずで、関わる人数が増えることで個別の人間関係が薄くなる。そうすると、以前であれば比較的はっきりとあった「友達 or 友達ではない」の境界がよりあいまいになっていって、最初は個別にゼロイチではない「友達度」のようなものがあって、そしてSNSで数百人とつながるのがあたりまえになると個別の判定もやってられないからクラスタでの濃度みたいになっていく気がする。

と、こういうのをちゃんと考えている人は いないんだろうかと思ったけど、おそらくソーシャル・キャピタルという話になるかなと調べてみて、面白そうな本をみつけたけど「若者たちはオンラインの世界にどっぷりつかり、かえって孤立して、現実世界に関与しなくなっている」「インターネットは社会的インフラではないと私は思う」ということが書いてあって、ニュースでしかネットを知らないのではと思ったりした。

もちろん、主眼が危機管理のようなので、そうするとネットのつながり「だけ」ではかなり危ういのはたしかで、物理的に近い人間関係は大事。その観点ではいい本だと思う。
でもそれは危機の最初の3日くらいで、それ以降はネットのつながりも有効になると思う。
と思って、こういった領域を専門にやってる人たちはSNSで1000人フォローが当たり前という世界には いないので、社会学にネットが組み込まれるにはSNSネイティブの人たちがこういった本を書くようになるまで10年くらいかかるのかなとも思ったりした。