暗黙知の形式化やソフトウェアの見える化は、やらないのが理想

ソフトウェアの見える化とか、暗黙知の形式化とかが流行ってるので、それに対するぼくの意見を。
ソフトウェアの見える化に関しては、暗黙知の形式化的な部分について。
ぼくの考え方は、暗黙知暗黙知のまま伝達するのが理想で、それが無理だから形式化するという考え方です。
ソフトウェアも、見ないでうまくいくなら最後まで見ないように。
箱を開けるとシュレティンガーの猫が死んでいるかもしれない。
形式化というのは伝達の手段で、組織やプロジェクトをまわすための情報は、あくまでも暗黙知として人の中に存在するべきだと思うわけです。


暗黙知というのは、無限の組み合わせを持ったあらゆる可能性に対処できる情報です。
暗黙知を形式化するというのは、暗黙知の持っていた情報を、ある視点からいくつかの可能性に対して抜き出すことです。
ここで問題になるのは、そのとき抜き出されなかった可能性や別の視点での捉え方は、形式化した時点で消えてしまうということです。


たとえば長唄浪曲は、楽譜をもたず口頭伝承で伝えられてきました。これは暗黙知暗黙知として伝えている例です。そのため、唄いかたは非常に多種多様で、基本的には歌い手によって違います。
これを楽譜化すると、楽譜化されなかった唄い方は消えてしまって、楽譜化された唄いかただけが残ります。このことはかなり問題になっているのですが、暗黙知暗黙知として伝える場がなくなったのでしかたないわけです。
話はそれますが音楽というのは、即興されて暗黙で伝えられているものがモードになります。形式化された時点で古典です。Jazzもロックも、アドリブとはいえさんざん形式化されてしまっているのですでに古典です。モーツァルトショパンも、あの時点ではアドリブで適当でモードです。
まあいいや。


東京都が不快行為の禁止を条例化するときの反対意見として挙げられているものに、「条例化されなかった行為を正当化してしまう」というものがありますが、これも暗黙知を形式化したときに、消えてしまう情報があることを表している例です。
あの条令は、内容の正当性の寿命に比べて条例というものの寿命が長すぎるので、ぼくは反対です。
まあいいや。


ただ、暗黙知の伝達には、非常に低い限界があります。
東京都の場合は、暗黙知が伝わる早さより人口が増える早さが早かったために、「常識」や「マナー」が暗黙知として伝わらなかったわけです。
だいたい、なんとなく飲みに行こうと言って全員集めれるというくらいの人数が、暗黙知暗黙知のまま伝える限界です。


ぼくが設計やテストをしないでやっていけているのは、一人で全部やるというのが、完全に暗黙知暗黙知のままやるための最適な形態だからです。
組織の規模が多くなればなるほど、プロジェクトの期間が長くなればなるほど、暗黙知暗黙知のままだと最後まで伝わりきらないので、形式化して遠くまで飛ぶようにする必要が出てくるわけです。
逆に、例えば10人未満の小さい組織やプロジェクトでは、暗黙知暗黙知のまま共有できる強みを生かすべきです。
また、そういった小さい組織が成長して10人以上になるとき、暗黙知暗黙知のまま伝えきれなくなるので、形式化して伝える工夫が必要になってきます。
組織が大きくなったときには、暗黙知暗黙知として共有できる小さなグループを作って、局所化できる情報は局所化暗黙化させる必要があります。


面白いことに、暗黙知暗黙知として伝達できる組織では、形式化されてきた情報を暗黙知として再構築することができます。
たとえば、読書会というのはそういった場だと思います。本は形式化されて伝わってくるのですが、数人で読みあわせることで多面的な暗黙知を再構築できるわけです。
そういう意味では、読書会はあまり多人数にならないほうが良いのかもしれません。
法律は形式化せざるを得ないんですが、そのかわり裁判官という暗黙知をもった人が裁くことで補完するわけです。そのため、判決は必ず裁判官が声を出して読み上げないといけないことになっています。声から出た言葉はその人自身ですからね。


とりあえず、暗黙知には無限の情報があることを知っておく必要があります。
そして、形式化というのは暗黙知が持っている無限の情報のうちの一側面しか捉えることができず、その形式化で捉えられなかった側面を消してしまうことを頭に置いておく必要があります。