「シュレティンガーの猫の核心」という文章を書いてみるテスト

シュレティンガーの猫の核心は、量子が粒か波か、それともワケノワカラナイ波か、というそんなこととは別の部分にある。
そもそも量子が粒だろうが波だろうがワケノワカラナイ波なのかは、この猫にとってはどうでもいい。
もちろん、量子がどういう性質を持つかって言うことは猫にとっての基本原理として大切なことだけど、それは、半導体のpn接合やら電子のふるまいがパソコンの原理でこそあれ、核心ではないのと同じだ。

では、シュレティンガーの猫の核心とはなにか。

それは「世界は観測するまでは可能性の重ね合わせの状態にあり、観測した瞬間に決まる」ということだ。
つまり、男と女の例でいえば

男と女が歩いている

という時点では女が男を好きかどうかは決まっていないが

「きみが好きだ。結婚してくれ」

という観測をした瞬間に決まり

「じゃあ好きじゃないから結婚しない」

という世界が決まるということになる。半分半分だから決められないということではない。

だれが観測するのか

猫の生死は観測した瞬間に決まる。
そうなると、だれが観測するのだろうか。
それは「あなた」である。
「あなた」が観測しない限り、猫が生きているか死んでいるか、「あなた」にとってはどちらとも決まっていない。
もちろん、「あなた」は猫を直接観測するとは限らず、猫が生きのびてネズミを食べ、ネズミの数が減り、桶がかじられなくなり、桶が売れず、桶屋がつぶれるという間接的な現象によって猫が生きていることを観測する可能性もある。
ともあれ、直接的か間接的かにかかわらず「あなた」が観測して初めて、猫が生きているか死んでいるか世界が決まる。
これは、感覚によって脳のなかに構築されるデカルト劇場のような引きこもり的な世界を意識が決めるというのではなくて、実在する世界を意識が決めるということだ。

「あなた」は特別なのか

「あなた」の観測が世界を決めるのだとしたら、「あなた」は特別なのだろうか?
もちろん「あなた」が死ねば「あなた」は絶滅する。「あなた」にとって「あなた」は特別だ。
しかし、ここでの問題はそれではない。
「世界」にとって「あなた」が大切かどうかだ。
つまり、「あなた」じゃない方の「あなた」が別に観測した場合はどうなるかということだ。
そこの「あなた」とあそこの「あなた」が、完全に独立に観測した場合は、どうなるのだろう?
それぞれが別の観測をするのだろうか?だとすると、それぞれの「あなた」がそれぞれの「世界」を持つことになる。
「世界」が観測者の数だけ存在するということになる。

「世界」は複数なのか

この「世界」が複数あるという解釈は、物理学でそれなりに支持されている。
しかしこの複数の世界の存在は、観測者の意識の数が複数であることを前提としている。
だれも複数の意識を経験した人はいない。二重人格は、片方の人格はもう片方の人格を認識していない。事故によって脳梁が壊されて右脳と左脳が独立してしまった人は、右脳は左脳の意識に気づかない。
意識ある「あなた」の外からの観測では、「あなた」に意識があるかどうかはわからない。「わたし」に確認できるのは「わたし」の意識だけである。
意識がひとつより多くあるという確固たる証拠はない。

意識がひとつだとしたら

それでは、逆にすべての意識は、統一されたひとつの意識であるとしたらどうだろう?
世界を観測する意識がひとつしかない以上、世界はひとつに収まる。
ユングの言う「集合的無意識」のようなひとつの意識のようなものが、波動関数の揺らぎの中からひとつの世界を結晶化するのである。
このひとつの意識についてシュレティンガーはこう述べている。

精神は、まさにその特性からして単一のものなのであります。一切の精神は一つだと言うべきでしょう。私はあえて、それは不滅だといいたいのです。
精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察

つまりは

シュレティンガーの猫の問題は、観測とは何かという問題を提示したと言われるが、当のシュレティンガーにとっては、統一された意識を考えることによって、つねにひとつの世界が決まるという風に結論が出ていたと思われる。


ちなみに「シュレティンガーの猫」について書いてみてわかったことは、「シュレティンガーの猫」について何かを書こうとすれば、必ずわき道にずれる、ということだ。
そしてそれは、書いて観測してみなければわからない。