「シュレティンガーの哲学する猫」読んだ。

シュレティンガーとつくけど量子力学の本ではなくて哲学の本。十数人の哲学者について、へんなネコの物語にはさみながら解説する本。

シュレディンガーの哲学する猫 (中公文庫)

シュレディンガーの哲学する猫 (中公文庫)


半分まで読んだときの感想は「ひとりひとりの解説が中途半端だし、物語も哲学と関係なくて、その分だけ哲学者の解説を増やして欲しい。それに構成についての説明がなくどう読んでいいかわからない。ひどい本だ。しかも苗字が章題になっているのに本文は説明もなくファーストネームや愛称での説明になっていて誰のことかわからない」というものだった。
けれども、読みすすめるにしたがって、それも狙い通りだということに気づいた。


という感じで書くとまたもダンコガイ調になってしまうのだけど、よいところが多い本に関しては、気になった部分を先にもってくる構成のほうが書きやすくて、どうしてもそうなってしまう。ダン先生、そういうことだったんですね!


ともかく。
この本は、もちろんいろいろな哲学者を紹介する本ではあるのだけど、それよりも、理系の人に、世の中論理的じゃないということをちゃんと勉強しようぜという本なのだった。なので、ひとりひとりの解説が中途半端であっても、そこは本質ではない。
そう、この本は、珍しく、理系向けの哲学ガイドなんで、ここ見てる人で哲学やりたくなったらまず読んでみていいかもしれない。
有名どころをあげておきましたという哲学カタログとは違って筋が通っている。


物語と哲学解説が交互に切り替わるという構成について、あとがきにも「どれくらい読者に受け入れられたのか」と書かれているけど、確かに構成がどうなっているか気づくまでは、まぎらわしいもの以外なにものでもなかったし、物語へらして、その分もっと解説をふやしてほしいと思ったりした。
ただ結局こう思いながら読むと、後半にいくにしたがって強くなっていく「理系の人はもっと文系分野を大切にしろ」というメッセージに、その批判をひっこめさせられるのだった。
あ、物語は物語としておもしろくて、「シュレ猫」もかわいいので、これはこれでいいと思う。この読みやすさのおかげで最後まで一気読みできたという部分もあるし。


ただし、表題と本文で使っている名前が違うというのはいただけない。たとえばサルトルという哲学者について、「サルトルの章」というのがあるのだけど、いちど「ジャン・ポール・サルトルの発言が〜」とフルネームが出ると説明もなく「ジャン・ポールの哲学を〜」となってしまう。引用してあるほかの書籍では「サルトルは〜」と書いてあるわけで、かなり混乱してしまう。一番問題は「サルトル」という言葉を脳に刻みにくくなってるってことで、これはちょっと残念だった。

サルトルの章「行動のなか以外に現実はない」

ところでそのサルトル
この本では、一番この言葉が刺さった。

行動のなか以外に現実はない

たとえば、なにかを相談するとき、相談者を選ぶ時点で聞きたい意見が決まっているわけで、結局自分で選んでいるというわけで、だから結局自分で行動するしかないのだと。
あと、いまTwitterFacebookGoogle+などもありながら、こうしてここにぼくは書評を書いてるわけだけど、その行動が「書評ははてなのほうがいい」という方向に世の中を動かすというわけだ。書評を公開するというのは、直接いろいろな人に影響を与えるわけだけど、たとえばぼくが家にこもって仕事をしているというのも、家にこもって仕事をする人がひとり増えているという点で、世の中に影響を与えるわけだ。
それが、

君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ。

というサルトルの言葉になるという話。

サンテグジュぺリの章

あといくつかの章について感想。
サンテグジュぺリは「星の王子さま」の作者。
青空文庫に「あのときの王子くん」というタイトルで大久保ゆうさんの翻訳が公開されている。
図書カード:あのときの王子くん


あと、「手帳」についての解説のPDFが岩手大学で公開されている。
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/handle/10140/2453


サンテグジュペリの言葉としては

ぼくは、食べたり、子供を育てたり、つぎの月まで食いつなぐといった必要によ
って、より密接に人生に結びついている人びとが好きだ。そういう人たちのほうが人生について多くのことを知っている。

が気に入った。

ファイヤアーベントの章

この章は10章中の第6章なのだけど、ここから著者のいいたいことがわかってくる。
ファイヤアーベントというのは、ようするに「科学ばかり尊重してオカルトやら占いやら切り捨てるんじゃないよ」ってことを言ってた人らしい。
技術者の人がこの本を読むとして、一番読んで欲しい章はここだと言える。

基本的観念の攻撃は、いわゆる未開社会におけるタブー反応に比べて決して弱いものではないタブー反応を呼び起こす。

というのは、技術者も、自分の追っている技術が批判されたときに行ってしまう反応だと思う。


あと、地震のあと、論理的・科学的な行動を取ろうとして、「安全厨」と言われたり、あとから発表された情報をふまえるとその行動が間違っていたということもよくあった。
その論理的・科学的な行動については、まさに次のように書かれた行動そのままだと思った。

よく訓練されたペットは、自分ではどんなに混乱していても、また新しい行動の
パターンを採用する必要がどんなに切迫していても、主人に服従するであろう。

「理性の声」と思っているものが、単に彼が受け取った訓練の、因果的遅発効
果に過ぎぬということを理解することが全くできなくなるだろう。


地震以来、そういったことを経験して、科学的であることや論理的であることにどのような意味があるのか、自信がなくなっていたのだけど、そのような自信はなくてもいいんだというのがわかって、少し求めてた答えに近づけた気がした。