美しい日本語を保存したい人は「あたらしい」も嫌うか

先日のエントリで、音転のことを書いた。
http://d.hatena.ne.jp/nowokay/20120710#1341879232


そこでも例に出したのだけど、「あたらしい」は「あらたしい」が音転したもので、「正しい」読み方としては「あらたしい」の方だ。「あらたしい」を「あたらしい」というのは江戸の流行語だったという話もある。
http://www.tisen.jp/tisenwiki/?%BF%B7%A4%B7%A4%A4


「あたらしい」は「可惜し」との混同で平安時代にはすでにあったということだから、たぶん、江戸時代に印刷・出版とか寺子屋とかが整って、「正しい」読み方が規定されたからこそ、「正しくない」が流行ったんだろうと思うけど。


ところで、よく日本語の乱れとかいう話があるときに「そんなことを言うなら『新しい』の読みはどうなんだ」というツッコミがあったりするんだけど、最近の個人的な考えとしては「いまとなっては仕方ないけど、平安時代にさかのぼって歴史を変えていいなら、日本語が乱れるといって阻止したい」という感じ。そのおかげで「可惜しい」という言葉が死語になっていて、MS-IMEは変換すらしてくれない。
しかしまあ、仕方がない。


そいういうことを言うと、「すでに『可惜しい』という言葉が使われた文献は残されているし、いまの言葉ならブログやTwitterなんかで残っているのだから、変わってもいいじゃないか」って話もある。
言葉は生き物だから、と。
ただ、その意味では、言葉は「使われる」ことで生きているのであって、生み出された言葉自体はもう生きてはいない。生み出された言葉は、抜け落ちた髪の毛のようなものだ。もう、そこからは伸びない。


言葉にとって大事なのは「どのように伸びうるか」ということで、そして、その「どのように伸びうるか」というのは、集団の不思議な知識として保存されている。
使う人がいるからこそ、言葉がどのように伸びうるかわかるのであって、使う人がいなくなれば、言葉がどのように伸びてきたかはわかるとしても、さらにどのように伸びうるかはわからなくなる。


ところで、「美しい日本語を保存する」という考えかたは、個人的には違う。言葉は、美しい言葉も美しくない言葉も保存したいと思っている。
白髪も、ちぢれ毛も、髪として生えているものは抜けて欲しくないと思うのが、性というものだろう。
日本語を保存するというのは、抜け毛に抵抗するおっさんの努力のようなもので、できることならふさふさがいいのだと考えてもらうと、その努力を認めてもらいやすいのではないか。
髪の毛よりも、毛根が大事なんだ、と。

はじめて読む日本語の歴史

はじめて読む日本語の歴史

この本、時代ごとにどう日本語が変わってきたか読みやすく書いてあってよさげでした。