美術館がブリロボックスを購入したのは値段以上の効果があったのでは

2025年にオープンする鳥取県立美術館でウォーホルのブリロボックスを5箱3億円で買ったことが話題になってます。

ブリロボックスは、スチールウールの配送用段ボールを模した木製の箱です。
位置づけとしては「部屋干しトップ」の配送用の箱を木で作ったものをイメージしてもらえばいいかと。

そういう作品なので、「見ても価値がわからない」という批判も出てくるわけです。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20221026-OYT1T50268/3/

冒頭にあげた記事では「ポップアートとか意味すら分からない人が大多数」という意見も出ていました。
けれども、意味すら分からない人が大多数であればこそ、「新たな視点で物事を柔軟にとらえ、想像力を豊かにする教育効果もある」ことになります。

追記(2022/11/19)
平井知事が「まさに現代美術史がたどってきた道筋を、私たちが歩いているということなのかもしれません」と言ってます。
「令和の世に議論が深まったとか言われても困る」というコメントがついていますが、100年近く前に起きた議論に令和になってようやく追いついてきたわけで、そうやって文化を進めることが公立美術館の役目だと思います。 むしろ令和になっても公立美術館が「写真みたいでキレイよね」とかやってるほうが困ると思います。そういうのは商業美術館でやればいいので。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/206591 --ここまで

で、そういったブリロボックス周辺の事情は「美学への招待」に解説されています。

たとえば次の部分は、今回の騒動をそのまま説明しています。

貴重なものが絵画に再現され、それが習慣になると、絵画に描かれたものは貴重なものだ、ということになります。(中略)しかし、『ブリロ・ボックス』には居心地の悪さを感じます。何しろ、それは無価値なものを再現した芸術品であり、芸術品である以上、当然高価なものだからです。

ブリロ・ボックスのような現代アートの背景には次のようなものがあります。

かつて、自然を模倣するのが芸術だ、という考え方が定説でした。(中略)絵画について言えば、肖像画や風景画がこの理論のモデルケースであるのは、明らかです。ところが、写真の発明はこの機能を絵画から奪い取りました。そこで、印象派に始まり、抽象画に至るさまざまな非写真的な絵画が生まれてきました。この芸術の新しい傾向に現れた哲学的判断は、《芸術は非自然のものだ》であったと思われます。

ブリロボックスは1964年の作品ですが、1962年の作品に「マリリン」があります。

1960年ごろには写真も芸術としての立場を確立していたのですが、ウォーホルはこの劣化コピーを並べることでも芸術になるのかという挑戦をしたわけです。

マリリンの場合は、コピー元はスターの写真であってそれなりの美的価値がありましたが、ブリロボックスの場合は、そのコピー対象をスーパーに並んでいる商品にして、さらにその価値を問ったといえます。

たとえばこれが1辺3mくらいに巨大化するとか、逆に1辺5cmにミニチュア化すると、それはわかりやすい美術的価値になったかもしれません。
けれどもブリロ・ボックスは実物大です。ダンボールか木箱かだけが違います。ただ、元が量産品であることを示すことが大切なので5点購入というのは必要だと思います。

芸術と言えば、それだけで、人びとが納得するようになり、多少奇矯なふるまいや言動でも許されるような、そういう状況に至っています。このような状況において、芸術の自己反省とでも呼べるような作品が生まれてきたわけです。このような作品は、残念ながら、虚心に見たり感じたりすれば分かる、というようなものではありません。一点の曖昧さもない『ブリロ・ボックス』が難しいのは、この意味においてのことなのです。

こういった意味では、「ブリロ・ボックス」に「見ても価値がわからない」というのは当然で、そして「3億の価値があるのか」「なぜ5点必要なのか」という議論が起きること自体がこの作品の持つ意味なので、こうして全国的に話題になったということは、すでに3億円の価値があるように思います。

ところで一辺4.5cmのものがAmazonに売っているので欲しい。